太田道灌 上杉家の滅亡を救うも謀殺された文武の将
永享4年(1432年) 〜 文明18年7月26日(1486年8月25日) 享年55歳
太田道灌(おおた どうかん)は永享4年(1432年)関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の執事・太田資清の子として相模国(神奈川県)に生まれます。幼名を鶴千代といい、幼少ながらその英才ぶりは世に知られていました。15歳の時、主君の上杉持朝から一字を賜わり、持資(もちすけ)、のちに資長(すけなが)と改め、さらに、長禄2年(1458年)仏門に帰依してからは道灌と号しました。
道灌の才気煥発を伝える逸話が残っています。父資清が俊英にすぎる鶴千代を心配して「知恵が過ぎれば大偽に走り、知恵が足らねば災いを招く。例えれば障子は直立してこそ役に立ち、曲がっておれば役に立たない」と訓戒すると、鶴千代は屏風を持ち出し「屏風は直立しては倒れてしまい、曲っていてこそ役に立ちます」と言い返したと「太田家記」に記されています。
当時、父・資清が執事として補佐していた扇谷上杉家は、他の上杉諸家と同じく関東管領を継承する家格でしたが、事実上の宗家である山内上杉家が関東管領をほとんど独占していました。やがて、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立から起こった争いは、関東地方一円に拡大し古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側にに分かれて覇を争う享徳の乱へと発展していった。この間、家督を譲られた資長は扇谷上杉家を補佐し、房総の千葉氏の抑えとして武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した。
応仁元年(1467年)京で応仁の乱が勃発。同年、父道真(資清の法名)が長年仕えた扇谷家当主の持朝が死去。跡を継いだ政真も古河公方足利成氏に討ち取られてしまう。代わって叔父にあたる上杉定正が当主となる。この頃に資長は出家して道灌と称したと云われる。
文明14年(1482年)、古河公方と山内・扇谷両上杉家との間で和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱はようやく終焉した。
道灌は30数回の合戦を戦い抜き、ほとんど独力で上杉家の危機を救った。「太田道灌状」で「山内家が武蔵・上野の両国を支配できるのは、私の功である」と自ら述べている。
道灌の活躍によって主家扇谷上杉家は大きく勢力を拡大した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。すると自然、周囲からの謀反のうわさや誹謗が湧き上がってくる。道灌は一切弁明しなかったが、『太田道灌状』で道灌は主家の冷遇に対する不満を吐露している。
文明18年7月26日(1486年8月25日)主君定正の糟屋館に招かれた道灌は、入浴後に風呂場の小口から出たところを襲われ、斬り倒され絶命した。享年五十五歳。
道灌暗殺により、道灌の子の資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人、地侍の多くが山内家へ走り、その後山内・扇谷両上杉家は歴年にわたる抗争を繰り広げることとなる。
やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになる。
