細川ガラシャ 逆臣の娘としての苦難を愛と信仰に殉じた悲劇の生涯
永禄6年(1563年) 〜 慶長5年7月17日(1600年8月25日) 享年38歳
細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ)は、永禄6年(1563)明智光秀の三女として生まれました。
名は、たま(玉、珠)と言い、ガラシャはキリスト教の洗礼名です。
天正6年(1578年)、十六歳の時に父光秀の主君織田信長のすすめによって山城国勝竜寺城主細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚します。
天正10年(1582年)6月2日、父明智光秀が主君織田信長を討つという本能寺の変が起きる。しかし、光秀は、羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れ、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれて果てました。
「逆臣の娘」となった。珠は、夫、細川忠興により丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉されてしまいます。
幽閉されてから2年、天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉の取り成しにより、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻します。
夫、忠興が九州へ出陣し、不在のとき、玉はカトリックの教会を訪ねます。珠に説教をおこなったコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。
やがて、珠はイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けます。
秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じます。しかし、ガラシャの強い信仰心が消えることはありませんでした。これを知った忠興は激怒し、再三ガラシャに棄教を迫りましたが、ガラシャは応じませんでした。
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、豊臣秀吉死後の政権を巡って徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍との間で関ヶ原の戦いが起きます。
その少し前、慶長5年7月16日(1600年8月24日)、石田三成は大阪に残る東軍諸大名の妻子を人質に取ろうとします。三成は、兵五百を持って大阪の細川邸を取り囲みガラシャの大阪城内への引き渡しを要求しました。
ガラシャは、これを拒絶し、家老の小笠原少斎に胸を貫かせて死にました。享年三十八歳。
