陶晴賢 忠臣ゆえの謀反の末、毛利元就との厳島決戦に破れ自刃
大永元年(1521年) 〜 弘治元年10月1日(1555年10月16日) 享年35歳
陶晴賢(すえ はるかた)は、大永元年(1521年)、周防の守護大名、大内氏の重臣・陶興房の次男として生まれます。通称を五郎、初名は隆房といいます。天文8年(1539年)、父が病没したため、家督を相続しました。
天文10年(1541年)、出雲守護代として山陰地方を拠点としていた尼子晴久が大内義隆に属していた安芸の毛利元就の居城吉田郡山城を攻撃。隆房は、毛利元就の援軍として大内義隆から総大将の権限を与えられ出陣、尼子軍を撃退するという戦功をあげます。
天文11年(1542年)、大内義隆自らが総大将となり、陶隆房、内藤興盛、弘中隆包ら一万五千の兵を率いて尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現;島根県安来市)へ侵攻。毛利元就も安芸・周防・石見の国人衆を集めて参陣した。しかし、攻防戦は1年4ヶ月にも及び、大内軍は義隆の養嗣子大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。
この敗戦以後、義孝は政治に対する意欲を失い、軍事面にも興味を示さなくなり、文化に傾倒するようになった。こうして、この月山富田城の戦いは大内氏衰退の一因となってゆく。
やがて、大内義隆の信任を受けて文治派として台頭してきた相良武任(さがら たけとう)と武断派の陶隆房は徹底して対立し、さらに相良武任を重用する義隆とも不仲になっていった。
天文14年(1545年)、隆房は、相良武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を掌握する。しかし、再び相良武任が復権し文治派の巻き返しを受けて大内家中枢から排除される。隆房の相良武任暗殺計画を契機に大内義隆と陶隆房の仲は遂に破局を迎える。
天文20年(1551年)8月28日(9月28日)、隆房は遂に挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門大寧寺において大内義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆嫡男・義尊も殺害。さらに、逃亡していた相良武任や杉興連らも殺害した。
天文21年(1552年)、義隆の養子であった大内義長(大友晴英・大友宗麟の異母弟)を大内氏新当主として擁立し、大内氏の実権を掌握した。このとき隆房は、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。
天文23年(1554年)、大内義隆から厚く信任を受けて、その姉婿でもあった石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の攻撃を受け、大敗。安芸は毛利家の支配下に落ちた。
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら三万の大軍を率いて安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾ノ城を攻略しようとしたが、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れ、さらに安芸国厳島の戦いにおいて毛利軍に本陣を襲撃されて晴賢の軍勢は総崩れとなり敗北、自刃して果てた。享年三十五歳。
