宇喜多秀家 流人生活五十年、秀吉に愛された備前中納言
元亀3年(1572年) 〜 明暦元年11月20日(1655年12月17日) 享年83歳
宇喜多秀家(うきた ひでいえ)は、備前国岡山城主宇喜多直家の次男として生まれます。幼名を八郎といった。天正9年(1581年)、父直家の病没によりわずか9歳で家督を相続します。
直家死後は、叔父の宇喜多忠家が幼少の秀家をよく補佐し守り立てます。信長の命により毛利征伐のための羽柴秀吉中国遠征軍を援け備中高松城攻めにも出陣した。本能寺の変により、信長が横死すると秀吉の天下取りに積極的に協力、ついには備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の五十七万四千石の大大名に躍進したのです。
天正14年(1586年)には秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を妻に迎え、秀吉の「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けて秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなる。
秀家は、秀吉の四国征伐、九州征伐つづく小田原征伐にも参陣し奮戦する。朝鮮出兵の文禄の役には総大将として出陣。この朝鮮役の武功により中納言に昇叙されます。24歳の若き中納言の誕生です。慶長3年(1598年)5月、日本に帰国し、7月、秀吉から五大老の一人に任じられます。しかし、8月17日、秀吉は死去しました。
豊臣秀吉没後、宇喜多家内部で御家騒動が発生、徳川家康の調停により内乱は回避されたが、この騒動で直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を去り、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。
慶長4年(1599年)、豊臣政権の後見役前田利家が病没。豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化します。やがてこれに乗じた五大老の徳川家康が台頭してきます。
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、石田三成の打倒家康の挙兵−関ヶ原の戦いが勃発。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。積極的な戦い振りで、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易(かいえき・武士の身分剥奪、所領と城・屋敷没収)され、秀家は3年間薩摩の島津家久のもとに潜伏後、出頭すると死一等を減じられて死罪は免れ、伊豆諸島・八丈島へ配流となった。
八丈島では号を久福と改め、妻豪姫の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて、実に50年にわたる流人生活を送るのです。
明暦元年(1655年)11月20日、配流の地八丈島でその生涯を終えました。享年八十三歳。
まさに世は江戸幕府4代将軍・徳川家綱の治世であった。
