柴田勝家 誠実に潔く散った甕割り(かめわり)柴田
大永2年(1522年) 〜 天正11年4月24日(1583年6月14日) 享年62歳
柴田勝家(しばた かついえ)は、大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で尾張国守護斯波氏の流れをくむ柴田勝義の子として生まれたと伝わる。しかし、諸説あり定かではない。
尾張の織田信秀の家臣として仕え、幾多の戦いで武功を挙げ、信秀が亡くなって後は、嫡子織田信長の弟、織田信行に仕えた。
やがて、勝家は信行の兄織田信長を排除し、代わって信行を織田家後継者にしようと画策する。しかし、弘治2年(1556年)8月に信長との戦いに敗れると剃髪し、信長に降伏した。信行が再度謀反を企てると、勝家はこれを信長に通報、信行は自刃に追いやられた。
信行の死後、信長の家臣となり、信長の天下統一を援け数々の武功をあげる。まさに信長の重臣中の重臣としての地位を不動のものにしていった。
朝倉氏滅亡後、越前を支配していた一向一揆平定の功により、越前国北ノ庄(現在の福井市)を与えられる。
天正10年(1582年)、本能寺の変で光秀により織田信長が横死する。しかし勝家は越中国魚津城を攻囲中であり、上杉景勝の反撃に遭い、京都に向かうことができなかった。
本能寺の変後、織田氏の継嗣問題及び領地再分配会議である清州会議が開かれる。
勝家は、信長の三男・織田信孝を推す、一方明智光秀を討った羽柴秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立した。結果、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなる。これは重臣筆頭としてこれまで最大の発言権を持っていた勝家に代わり、秀吉が重臣筆頭の地位を占めることを示すものでした。
こののち、勝家は信長の妹、故浅井長政未亡人、お市と結婚している。
勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉に対抗するが、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄へ敗走。秀吉軍に取り囲まれた北ノ庄城で、勝家は夫人お市の方とともに自害した。享年六十二歳。
