武田勝頼 名門甲斐武田家を滅亡に導いた悲運の亡国の将
天文15年(1546年) 〜 天正10年3月11日(1582年4月3日) 享年35歳
武田勝頼(たけだ かつより)は、天文15年(1546年)、武田晴信(信玄)の四男として生まれる。別名、諏訪四郎勝頼。10歳の時に、母、諏訪御料人を病で失っている。
信玄の信濃経略に伴う諏訪地方平定のため、諏訪家の名跡を継ぎ、勝頼は武田家の通字である「信」でなく諏訪氏の当主が襲名してきた「頼」の通字を命名され、諏訪四郎勝頼と名乗り信濃高遠城主となる。
永禄8年(1565年)に信玄暗殺を企てた謀反事件にかかわったとされ武田家嫡男、武田義信が廃嫡、甲府の東光寺に幽閉され自害に追い込まれている。享年三十歳。
二男の海野信親は生まれつきの盲目のために出家し、三男の信之は夭逝している事から、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。元亀2年(1571年)、信玄の命令で高遠城から躑躅ヶ崎館に移る。これは事実上、勝頼を後継者にすると信玄が明確にしたことを現すものであった。
織田・徳川連合軍との戦い-三方ヶ原の戦いをはじめ信玄の晩年における主要な合戦の大半に参加して、武名を上げた。元亀4年(1573年)4月、父・信玄が上洛作戦の途中で病死したため、家督を相続し、武田氏第二十代当主となる。
信玄の死後、勝頼は、父以上の勢力拡大を目指して積極的な外征を実施し、織田信長・徳川家康と戦う。
天正3年(1575年)、勝頼は兵一万五千を率いて三河国へ侵入し、長篠城への攻撃を開始する。しかし、長篠城は武田軍の猛攻を支え、長篠城攻略に予想外の時間を費やすこととなる。そして、遂に織田信長・徳川家康の連合軍およそ三万五千が長篠(設楽ヶ原)に到着、勝頼と対峙する。天正3年(1575年)5月21日早朝に開戦、数で劣る武田軍は総崩れとなり、敗走する中で多くの有能な将士を次々と失ってしまう。この長篠の戦いでの敗北で、武田軍は1万人以上もの死傷者を出したといわれている。
長篠合戦後、三河から武田方が締め出されると、勝頼は武田領国の再建を目指し、天正5年(1577年)、信玄の宿敵であった上杉謙信と同盟を結ぶ。翌年、越後で謙信が病死すると、謙信の二人の養子である上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の七男・北条氏秀)との間で家督を巡り御館の乱が起こる。
勝頼は、当初、景虎を支援していたが、これを撤回、上杉景勝と和睦する。結果、家督争いは景勝が勝ち、上杉景虎は自害した。これにより、武田家は織田・徳川に加え、北条さえも敵に回すこととなった。やがて、織田・徳川連合軍の侵攻の前に武田領内諸城は次々に陥落していった。
織田・徳川両軍が迫る中、勝頼は新府城から小山田信茂居城の岩殿山城に逃れる。
しかし、岩殿城を目前にした笹子峠(山梨県大月市)で勝頼とその嫡男、武田信勝一行は信茂の裏切りにあい攻撃を受ける。
岩殿城入城を断念した勝頼一行は、武田氏ゆかりの地である天目山を目指して逃亡した。だが、一行は、天目山の目前にある田野の地で織田家中の滝川一益隊に捕捉された。最後の奮戦激闘をするも衆寡敵せず、勝頼は嫡男信勝、北条夫人とともに自害した。享年三十七歳。
戦後、勝頼を裏切った小山田信茂は、信長から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と咎められ、甲斐善光寺で処刑された。享年四十四歳。
