明智光秀 野心家か、はたまた悲劇の主人公か・・・
享禄元年(1528年)? 〜 天正10年6月13日(1582年7月2日) 享年55歳
明智光秀(あけち みつひで)の出身については諸説あり、現在もなお不明な点が多く定かではありません。清和源氏の美濃土岐氏の支流明智氏出身、通称十兵衛、家紋は土岐の水色桔梗紋とされるのが一般的なようです。
前半生の経歴には不明な点が多いのですが、越前の朝倉義景に仕え、細川藤孝とともに興福寺に幽閉されていた足利義昭、のちの室町幕府第15代将軍(室町幕府最後の将軍)を擁し織田信長に接したころから歴史の表舞台に登場してきます。
15代将軍となった義昭と信長の対立により、光秀は信長直臣となります。数々の戦功をあげ織田家家中の出世頭となってゆきます。近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築城したのもこの頃です。
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、光秀は、老の坂(おいのさか)を京へ通じる左に折れた。やがて桂川を渡ったところで光秀の「敵は本能寺にあり」の声が響きわたりました。
光秀が信長に反旗を翻した原因については、秀吉陰謀説、足利義昭説、朝廷黒幕説など諸説あり定かではありません。一般的には信長からの度重なるイジメが原因だと言われていますが、日本史上、最大の謎のひとつに間違いありません。
6月9日、世に云う秀吉の中国大返しの報を受けて山崎に出陣。13日、羽柴秀吉との山崎の戦い(天王山の戦い)に臨みます。秀吉の兵力は四万。それに対して光秀の兵力は一万六千。
一進一退の攻防の後、明智軍は総崩れとなり、光秀は居城坂本城(大津市)を目指して落ち延びます。途中、小栗栖(京都市伏見区)の藪(明智藪)で土民の落ち武者狩りに遭い、からくも逃れたものの力尽き家臣の介錯により自刃したと伝えられる。五十五歳。
