毛利元就 弱小国から中国の覇王へ登り詰めた智謀の将
明応6年3月14日(1497年4月16日) 〜 元亀2年6月14日(1571年7月6日)
毛利元就(もうり もとなり)は、明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人・毛利弘元の次男として安芸国吉田郡山城に生まれる。幼名は松寿丸。
明応9年(1500年)父・弘元はわずか八才の嫡男興元に家督を譲り、隠居した。元就は、父とともに多治比の猿懸城(さるがけじょう)に移り住みます。そして、元就五才の時に母が、また十才の時に父・弘元が死去します。元就はわずか十才で両親と死別したのです。
永正13年(1516年)、兄興元が急死。家督は興元の嫡男・わずか二歳の幸松丸が継ぎますが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見することになります。
二代続く当主の急死、残されたわずか二歳の当主に動揺する毛利家中のすきを見て、安芸の武田元繁が侵攻してきます。
しかし、元就はその智略により武田軍を壊滅します。これにより、安芸国人「毛利元就」の名は、世間に知られるようになり、同時に毛利家中での信望も集めていきました。
やがて、幼主毛利幸松丸が、わずか九歳で亡くなりました。毛利家重臣達は、元就を毛利家当主に推しました。元就二十七歳でした。
家督を継いだ元就は、その勢力を拡大してゆきます。高橋一族の討伐、尼子晴久との吉田郡山城の戦い、月山富田城の戦い、安芸武田氏討伐、そして「毛利両川体制」を確立し、ついには安芸一国の支配権をほぼ掌中に収めてゆきます。
天文20年(1551年)、周防長門の大大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害されてしまいます。
元就は当初、陶隆房と盟約を結んでいました。しかし、徐々に両者の対立は激化し、ついには厳島の戦いでぶつかります。兵力では勝る陶軍でしたが、元就の奇襲により壊滅します。陶晴賢(陶隆房改め)は自刃しました。
弘治3年(1557年)、元就は、晴賢に傀儡として擁されていた大内氏の当主・大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込みました。同時に元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居します。しかし、実権は元就がなおも握り続けたのです。
永禄5年(1562年)には、尼子晴久が急死して尼子氏が衰退し始めると、出雲へ侵攻し、周到な戦略を持って尼子氏を滅ぼしました。こうして元就は、中国地方十一ヶ国を支配する大大名となった。戦いの最中、永禄6年(1563年)、家督を継いだ嫡男の毛利隆元が急死しています。
元亀2年(1571年)6月14日、毛利元就は、吉田郡山城において死去しました。享年七十五歳。
