清水宗治 秀吉に 武士の鑑なり と云わせた備中高松城主
天文6年(1537年) 〜 天正10年6月4日(1582年6月23日) 享年46歳
清水宗治(しみず むねはる)は、天文6年(1537年)、備中松山城主三村氏に仕える清水宗則の次男として生まれる。幼名は才太郎。
三村氏と毛利氏の戦い-備中兵乱で三村氏が滅亡ののちは、毛利元就の三男小早川 隆景に仕え、毛利氏の中国地方の平定に従軍、信頼を得る。この頃、宗治は、三村氏譜代の石川氏が築いた備中高松城主となっていますが、その経緯は不詳です。
天正10年(1582年)4月、天下統一を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めの先鋒を任され、高松城攻めにかかる。宗治は高松城に籠城して抗戦する。秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じませんでした。
高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていましたが、5月8日、軍師、黒田官兵衛の献策により秀吉は城を堰堤で囲むという戦術に出ました。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものです。世に言う「高松城水攻め」である。人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ高松城は見事に水没しました。
6月2日本能寺の変が起こる。翌3日、明智光秀の毛利軍へ織田信長の死を知らせる密使を秀吉軍が拘束。信長の死を知った秀吉はこれを秘匿し、宗治の切腹を条件に城兵を助命するという和議を成立させました。
6月4日、清水宗治は信長の死を知らぬまま湖上に船を浮かべ切腹した。享年四十五歳。
宗治の兄、月生入道は、家督を宗治に譲って出家していましたが、秀吉の中国攻めには弟宗治とともに高松城内に籠城し、6月4日宗治自刃の時、共に切腹しました。
月生入道 「世の中の惜しまるるとき 散りてこそ 花も花なれ 人も人なれ」 享年未詳。
