別所長治 三木の干殺し ― 城兵達のため二十三歳で逝った青年城主
弘治3年(1557年)? 〜 天正8年1月17日(1580年10月21日) 享年23歳
別所長治(べっしょ ながはる)は、播磨国(兵庫県)の三木城主別所安治の嫡男として生まれる。幼名は小三郎。元亀元年(1570年)、父・安治の病死により叔父の吉親・重宗を後見に十三歳で家督を継ぐ。
その頃、天下の情勢は織田信長が、畿内をほぼ平定し、いよいよ中国経略に乗りだすところであった。信長は、羽柴秀吉を対毛利氏の総司令官として中国侵攻を始める。長治は率先して毛利氏討伐の先導役を務めようとした。しかし、その後、別所長治は突如として織田氏から離反し毛利氏側につく。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力もこの長治の決断に従うこととなる。ここに至って、信長がほぼ勢力下においていた播磨の情勢は一変した。
別所長治はなぜ、突然それまで臣従していた信長に反旗を翻したのか。よく云われるのが、別所氏の名門意識が成り上がりの秀吉との対立を招いたというものである。その他にも、かつては毛利氏とも友好関係にあったこと、播磨国内に信長と対立する浄土真宗の門徒が多かったこと、織田氏による所領安堵の約束への不信感、などですが、真相は分かっていません。
東播の小豪族たちは一族を引き連れて三木城に篭り、その兵力は七千五百におよびました。そして、三木城を囲む支城も防備を厚くし、東播磨一帯は襲い来る秀吉軍に対する徹底抗戦の布陣を固めたのです。
同じ頃、毛利軍は播磨・美作・備前の三国の国境にある上月城に迫っていました。上月城を守るのは尼子勝久を総大将とした三千の兵。対するは、毛利輝元率いる六万の大軍勢であった。秀吉は、ただちに上月城の支援に向かったが、その兵力はわずか一万七千でしかなかった。
毛利軍は、上月城の周囲に塀を巡らし柵や逆茂木で防備を固め、完璧な攻城線を敷き、長期戦の構えを見せた。
膠着状態が続くなか、やがて信長は、秀吉にまずは三木城の別所長治を討つべしと命ずる。このまま三木城を放置していては、中国に進出している織田軍は退路を断たれるのである。天正6年(1578年)6月25日、秀吉軍は尼子勝久等の守る上月城の救援を断念し撤退をする。
7月3日、秀吉来援の望みを断たれた、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久らは自刃し、開城した。
秀吉は、別所長治の三木城攻略を再開、主だった支城を落とし、三木城内への補給路を断った。しかし、同年10月、織田方の武将荒木村重が離反し毛利氏側につくという事態になる。これにより三木城は新たな補給路を確保する。が、兵糧輸送の中継地点、淡河城が織田方に攻略されると再び補給が困難となる。
幾度か毛利・別所両軍により兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行されるが、織田方の阻止により兵糧の城内搬入は失敗に終わる。
翌天正7年(1579年)10月、毛利氏側であった備前の宇喜多直家が離反、毛利氏の本国と播磨、摂津の間が分断され、毛利氏による三木城支援が不可能な状況に落ち入る。11月には、連携していた摂津の荒木村重の有岡城が織田氏に攻略される。
天正8年(1580年)1月、三木城内の兵糧はすでに底をつき、ここに凄惨な「三木の干殺し」状態が現出した。すでに支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶え、残るは本城のみとなる。
遂に籠城してから二年、天正8年(1580年)1月17日、別所長治は、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害して果てた。享年二十三歳。
