佐々成政 信長の信頼に応えた大の秀吉嫌い
天文5年1月15日(1536年2月6日) 〜 天正16年閏5月14日(1588年7月7日)
佐々成政(さっさ なりまさ)は、天文5年(1536年)尾張の土豪佐々成宗の第五子として尾張比良城に生まれました。通称内蔵助。織田家に仕える父や兄に倣い、成政も14歳で織田信長の小姓となります。相次ぐ合戦で二人の兄が討ち死にしたため、永禄三年(1560)成政25歳の時に家督を継ぎ、比良城主となりました。
成政は鉄砲の扱いに長けていたと言われ、武田勝頼を破った長篠の合戦では鉄砲隊を率いて活躍しました。
のちに北陸方面軍柴田勝家の与力となり、前田利家・不破光治とともに越前府中3万3000石を与えられ小丸城を築いて居城とし、府中三人衆と称せられる。天正10年(1582年)には、越中国主となり富山城を居城とした。同年6月の本能寺の変が起きたときには、成政は上杉軍との戦いで身動きが取れず、中国大返しを成し遂げ、光秀を討ち取った秀吉と明暗が分かれた。
柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につく。しかし、秀吉対勝家の決戦‐賤ヶ岳の合戦には参陣できませんでした。敵対する上杉軍のため動くことができなかったのです。
翌天正12年(1584年)の秀吉対家康の戦い‐小牧・長久手の戦いでは徳川方につく。しかし、秀吉・家康との間で和議が成立してしまう。すると成政は家康に再挙を促すため、厳冬の北アルプス・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙に出た。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、壮挙は空しく失敗した。
天正13年(1585年)、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政はついに降伏した。成政が領していた越中は、能登・加賀とともに前田利家の領するところとなる。
天正15年(1587年)3月、秀吉の九州征伐に出陣し、成政は功により肥後国一国を与えられる。ところが7月には、検知に反発した肥後の国衆による肥後国人一揆が起きる。肥後全域を巻き込んだ大規模な反乱へと発展するなか、成政は猛攻撃を受け大苦戦する。秀吉は、一揆が拡大することに危機感を抱き、九州・四国の諸大名を総動員し、同年12月にようやく一揆は鎮圧された。
成政は翌1588年2月、大坂へ出向き秀吉に謝罪しようとするが一揆の責任を問われ、切腹を命じられる。成政は摂津国尼崎法園寺にて切腹して果てた。享年五十三歳
その後肥後は、加藤清正が北半国、小西行長が南半国の領主となった。
