鳥居強右衛門 雑兵ながら敢然として逆磔に散った真のもののふ
天文9年(1540年) 〜 天正3年5月16日(1575年) 享年未詳
鳥居強右衛門(とりい すねえもん)は、徳川家康配下の三河国長篠城主奥平信昌の家臣で、天文9年(1540年)三河国宝飯郡内(豊川市市田町)に生まれる。名は勝商(かつあき)。
徳川家康は、甲斐武田氏の侵攻に備えて奥平信昌に約五百の手勢で長篠城の守備を命じていた。やがて、天正3年5月、長篠城は、武田勝頼率いる武田軍に攻囲される。8日の開戦に始まり、信昌は、武田の攻撃によく耐えて長篠城を守り続けていた。しかし、13日の猛攻によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。長期籠城の構えから一転、落城寸前にまで追いつめられていった。
信昌は家康に援軍の要請を決意する。しかし、武田軍によって十重二十重に取り囲まれているこの城を抜け出して岡崎城にまで赴き、家康に援軍を要請することは容易ではない。
この時、鳥居強右衛門が使者の役を願いでる。5月14日、強右衛門は、夜陰に乗じて城の下水口から城外へ無事脱出成功、15日には岡崎城に赴き援軍を要請した。
織田信長自ら率いる織田・徳川連合軍が、数日以内には長篠へ援軍に赴くと聞き、16日早朝、詳報を伝うべく長篠城入城を試みた。ところが、強右衛門は、警戒中の武田軍の兵に捕らえられてしまった。
長篠に織田・徳川の援軍が向かっていることを知った武田勝頼は、一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。援軍の到来を城兵が知れば、城内の士気は一気に高まり、一層の抵抗を示し短時日のうちの長篠城攻略は困難となる。
そこで勝頼は、強右衛門に「援軍は来ない」、と城に向かって叫ぶように命じる。強右衛門と城兵の助命を条件として。
頼みの援軍が来ないと知れば、城兵の士気は一気に急落して、城は降伏開城するしかなかった。
強右衛門は勝頼の要求を承諾。長篠城の西岸、見通しの利く所へ引き立てられた。強右衛門は城内に向かって叫んだ。「援軍は数日以内に来る。だから頑張れ!」
勝頼が命じた内容とは全く逆のことばであった。
強右衛門は武田軍によって磔にされた。享年未詳。
その後、長篠城は織田・徳川連合軍の来援まで持ち堪えた。
強右衛門の命を賭しての忠義に感動し、磔にされている強右衛門の姿は、武田家家臣によって旗指物に使われた。これはいまも現存している。
