平塚為広 朋友大谷刑部吉隆と共に関ヶ原に散った義将
? 〜 慶長5年9月15日(1600年10月21日) 享年未詳
平塚為広(ひらつか ためひろ)は、明智光秀に仕えたのち豊臣秀吉・秀頼に仕えた美濃垂井城主。しかし、生年をはじめその前半生は明らかではない。
天正12年(1584年)の秀吉と織田信雄・徳川家康連合との小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原後北条氏征伐などに参加して武功を挙げている。文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて行われた秀吉の朝鮮出兵にも参陣し、肥前名護屋城に駐屯した。
慶長3年(1598年)春の秀吉の京都醍醐の花見では、秀吉の側室たちの護衛を務めている。
慶長3年(1598年)8月、秀吉がその子秀頼と豊臣家の行く末を案じながら伏見城で亡くなると豊臣秀頼に仕える。
秀吉の死後、専横な振る舞いが多く、次の天下を狙う様の徳川家康に対して石田三成が、討伐の兵を挙げようとする。為広は大谷吉継と共に三成をその居城佐和山城に訪ね、家康と対立することは無謀であり、三成に勝機なし、と反対、諫言した。
しかし、三成は固くこれを聞き入れず、ついに毛利輝元を総大将に擁し、家康討伐の兵をあげた。ことここに至って、為広は三成との友誼に順じ朋友大谷吉継と共に三成の西軍に与することを決意する。
そして、関ヶ原本戦の前哨戦として家康家臣の鳥居元忠が守る伏見城を攻撃、これを炎上落城させた。
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原で家康と石田三成が激突、関ヶ原の戦いが起こる。平塚為広は、業病を患い輿に乗って軍を指揮する大谷吉継をよく援け奮戦する。
しかし、小早川秀秋の裏切りにはじまり、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らも小早川軍に呼応して家康の東軍に寝返るにおよび、大谷隊は壊滅、平塚為広は自害して果てた。享年未詳。
自害するに及び、大谷吉継に討ち取った敵将の首と共に辞世の句を送っている。
