蒲生氏郷 信長に愛され、秀吉に恐れられた、人望厚き武将
弘治2年(1556年) 〜 文禄4年2月7日(1595年3月17日)) 享年40歳
蒲生氏郷(がもう うじさと)は弘治2年(1556年)滋賀県蒲生郡日野町に、蒲生賢秀の嫡男として生まれます。幼名を鶴千代という。 主家六角氏が信長に滅ぼされ、蒲生氏は信長に臣従し嫡男氏郷は13歳で人質として岐阜の織田信長のもとに送られます。
信長は氏郷のその非凡な才を見抜き寵愛、娘の冬姫と結婚させました。岐阜城で元服して忠三郎賦秀(やすひで)と名を改める。
人質の身分から家臣となった氏郷は、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍との姉川の戦い、越前の朝倉攻めと小谷城攻め、伊勢長島攻め、、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が戦った長篠の戦いなどに連戦して、武功を挙げその武勇を誇った。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長が本能寺の変に倒れると、居城・日野城へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示します。が、光秀は日野城に迫ることなく秀吉の前に敗死しました。
氏郷は、その後は羽柴秀吉に従い、伊勢松ヶ島十二万石を領し伊勢松坂城主となる。秀吉と秀吉の天下に不満の信長の次男・信雄と徳川家康連合との争い、小牧・長久手の戦いやつづく九州征伐、小田原征伐などに従軍する。
天正18年(1590年)幾多の戦功により、陸奥会津に移封され九十二万石という大領を与えられる。先年には、賦秀から氏郷と名乗りを改め、また秀吉から「羽柴」の姓を賜っている。
会津では、町の名を黒川から「若松」へと改め城の名を鶴ヶ城と命名した。出身地の日野城近くの馬見岡綿向神社参道周辺にあった「若松の杜」に由来すると云われる。
秀吉から会津を没収された会津の旧領主、伊達政宗と度々対立しながらも、1592年の朝鮮出兵‐文禄の役では、肥前名護屋へ出陣しました。しかし、この陣中で体調を崩し、1595年2月7日、京伏見の蒲生屋敷において死去。享年四十歳。
蒲生家家督はその子秀行が13歳の若さで跡を継いだが、家中不統率から下野国宇都宮に移され十二万石に減封された。会津には、代わって越後から上杉景勝が入封した。百二十万石。
