淀殿 生涯三度の落城の果て、 強く生きた天下人の母
永禄12年(1569年)? 〜 慶長20年5月8日(1615年6月4日) 享年49歳
淀殿(よどどの)、浅井茶々(あざい ちゃちゃ)は近江の戦国大名・浅井長政と尾張の織田信秀の娘・お市の娘として近江国(滋賀県)に生まれる。織田信長の姪にあたる。妹には初(京極高次正室)と江(徳川秀忠正室)がいる。
元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに続き、父・浅井長政は母の兄・織田信長と敵対していた。天正元年(1573年)、信長は長政の居城、小谷城への攻撃を開始する。長政が頼みとする越前朝倉義景の援軍は、信長に越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖され小谷城に入ることができず、やむなく撤退をする。信長の嫡男・織田信忠は、撤退する朝倉軍を追撃、越前に攻め込んでついに朝倉氏を滅亡に追い込んだ。
やがて、羽柴秀吉の軍勢に囲まれた小谷城もついに陥落。長政の父久政は自害し、さらに翌日には長政も自刃し、ここに浅井氏は滅亡した。
このとき、茶々は母と二人の妹とともに城を落ち、兄信長のもとに保護された。茶々の兄、万福丸は捕らえられ、信長の命で秀吉によって処刑された。享年十歳
天正10年(1582年)、兄信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に殺される。信長亡き後の覇権を争って羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、母お市の方は勝家と再婚し、反秀吉を鮮明にする。茶々は母とともに勝家の居城北の庄城(福井市)に移る。
やがて、秀吉と養父・勝家の対立は激化し、織田勢力を二分した賤ヶ岳の戦いが起きる。賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、越前・北ノ庄城で母、お市の方とともに自害した。
このとき、茶々ら三人の娘は落城する北ノ庄城から脱出させられ、秀吉の保護を受けた。その後は叔父の織田長益の庇護の下、安土城に住まいしたと云われている。
そして、天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となる。三姉妹の中では母の面影を一番よく受け継いでいたのが長女お茶々だったからと云われています。
天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。これを喜んだ秀吉から淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになりました。しかし、鶴松はにわずか三歳で病没。その後、文禄2年(1593年)に拾丸(ひろいまる)、のちの豊臣秀頼を生む。
慶長3年(1598年)春、豊臣秀吉は京都の醍醐寺において、秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約千三百名を従えて盛大に花見の宴を催した。醍醐の花見である。その日の輿の順は、一番目に北政所、二番目が淀殿であったと記録されています。
「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならびなき 春にあふらし」
淀殿が、この醍醐の花見で詠まれた歌と云われています。
こののち、約半年、8月18日、秀吉は幼い秀頼の行く末を案じながら伏見城で没する。
秀吉の死後、勝手な振る舞いが多い徳川家康に対して石田三成が挙兵する。関ヶ原の戦いの勃発である。秀頼は、この関ヶ原の戦いには、表だって関与はしていないが、豊臣家の直轄領は大幅に削減される。
その後も、江戸に幕府を開いた家康との対立は続き、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣、翌慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で豊臣方は徳川勢に完敗、大坂城は落城した。淀殿は、大坂城山里曲輪で秀頼と共に自害した。享年四十九歳。
