足利義昭 流浪の室町幕府最後の将軍
天文6年11月13日(1537年12月5日) 〜 慶長2年8月28日(1597年10月9日)
足利義昭(あしかが よしあき)は、天文6年(1537年)室町幕府12代将軍足利義晴の次男として生まれます。兄は第13代将軍・足利義輝。幼くして仏門(興福寺一乗院)に入り、覚慶と名乗りました。
13代将軍であった兄・義輝が松永久秀や三好三人衆らによって暗殺されると、義昭にも危機が迫りました。間一髪、幕臣、細川藤孝や和田惟政らの手によって危機脱出に成功。
越前の戦国大名、朝倉義景に将軍家再興の助力を要請します。しかし、残念ながら上洛は実現できませんでした。代わって、明智光秀の斡旋にしたがい織田信長を頼って美濃へ渡ります。
永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁立されて上洛、10月18日、将軍宣下を受けて晴れて、室町幕府第15代将軍に就任しました。
信長と義昭の蜜月期間は長くは続きませんでした。義昭は武田信玄、朝倉義景、浅井長政や松永久秀らに信長討伐令を下しますが、やがて信長によって京を追放されてしまいます。京を追われた足利義昭は中国地方の雄、毛利輝元のもとへ亡命し、毛利氏をはじめ諸国の諸大名に信長追討令を下します。
織田勢と毛利勢の一進一退の戦いのなか、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きる。明智光秀の謀反により織田信長は自害して果てました。
明智光秀との山崎の戦いに勝利した羽柴秀吉は勢力を拡大し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦ではライバル柴田勝家を倒し、信長の後継者としての地位を確立した。これにより毛利氏は、天下人を羽柴秀吉と見定めてその麾下に入る。
家康との戦いにも勝利した豊臣秀吉の天下が固まった頃、天正16年(1588年)、義昭は将軍職を辞し、出家して秀吉に拝謁。京都填島において秀吉より捨扶持1万石を与えられ、秀吉の庇護の下生涯を終える。慶長2年(1597年)、大坂で死去。享年六十一歳。
