浅野幸長 豊臣氏への忠誠を誓い続けた三成嫌い!
天正4年(1576年) 〜 慶長18年8月25日(1613年10月9日) 享年38歳
浅野幸長(あさの よしなが)は、秀吉の正室おねの義弟で、後の豊臣政権の五奉行の一人、浅野長政の嫡子として近江国浅井郡小谷(滋賀県湖北町)に誕生します。
15歳で後北条氏征伐の小田原城攻めに初陣。秀吉の無謀な朝鮮出兵‐文禄・慶長の役にも出陣するなど武勇に優れた歴戦の勇将でした。
秀吉の死後、次の天下人の座を狙う徳川家康が次第に台頭してきます。勝手放題の家康に対抗したのが五奉行の一人石田三成でした。やがて豊臣政権の大老・前田利家の病死をきっかけに三成と対立する幸長は、加藤清正、福島正則ら武断派とともに文治派・三成の大坂屋敷を襲撃しました。幸長は、大変な石田三成嫌いだったのです。
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で関ヶ原の戦いが起きる。徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍の豊臣秀吉死後の覇権を争う最大の決戦‐天下分け目の戦いである。
浅野幸長は、秀吉に恩顧を感じ誰よりも豊臣政権に忠誠を誓っていたといわれます。が、関ヶ原の戦いでは家康の東軍に属し、戦後には紀伊国和歌山に参拾七万六千石を与えられました。
慶長18年(1613年)8月25日に和歌山で死去。病死といわれるが、家康一派による暗殺説も伝えられています。享年三十八歳。
幸長の死の翌年から大坂冬の陣が始まり、慶長20年(1615年)大坂夏の陣で豊臣氏は家康により滅ぼされた。
