大谷吉継 業病を患いながらも、節義に殉じ関ヶ原に散った義将
永禄2年(1559年)? 〜 慶長5年9月15日(1600年10月21日) 享年42歳
大谷吉継(おおたに よしつぐ)は、豊後の戦国大名・大友宗麟の家臣、大谷盛治の子として近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説ですが、異説もあり定かではありません。
幼名を紀之介、長じてのちは吉隆、また従五位下、刑部少輔に叙されたことから、大谷刑部の通称で知られる。
天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死し、秀吉と光秀の山崎の戦い、つづく織田家筆頭家老の柴田勝家と羽柴秀吉の天下の覇を争う賤ヶ岳の戦いが起こります。この戦いで有名なのが加藤清正、福島正則らの賤ヶ岳七本槍ですが、吉継も三振の太刀と賞賛される大手柄を立てます。
その後も、九州征伐、小田原征伐、続く奥州征伐にも秀吉配下として出陣します。秀吉の朝鮮出兵に際しては、物資調達など後方支援で功績をあげています。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなると、次の天下をねらう家康が会津の上杉景勝に謀反の嫌疑ありと上杉討伐軍を起こします。吉継も参陣しようと領国敦賀を出立、途中、石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄ります。
そこで三成から家康に対しての挙兵計画を打ち明けられます。これに対して吉継は、「無謀であり、三成に勝機なし」と三度説得するも、三成は固い決意を持って翻意しませんでした。
ここに吉継は、敗戦を予期しながらも親友、石田三成の下に馳せ参じる決意をするのです。
慶長5年(1600年)9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いが始まりました。吉継は癩病を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたと云われ、輿に乗って軍を指揮、味方に倍する東軍相手に奮戦します。しかし味方であるはずの小早川秀秋の裏切りに端を発し、他の諸隊もつぎつぎに徳川方に寝返り、さしもの大谷軍もついに崩れ去ります。
勝敗の趨勢を悟った大谷吉継は、自害して果てました。享年四十二歳。
関ヶ原の合戦に参加した西軍諸将のうち、戦場で散ったのは大谷吉継だけでした。
吉継が、関が原で敗戦を予測しながらも、石田三成に味方し、ともに挙兵したのは二人の間に深い友情が存在したからと伝えられます。
あるとき催された茶会において、招かれた豊臣諸将たちは茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。この時、癩を病む吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気のうつるのを恐れて飲むふりをするだけであった。が、三成だけは普段と変わりなくその茶を飲み干した。吉継は、感激し、以降二人は厚い交誼を結ぶことになったと云う。
